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2012年12月31日月曜日

今年をふりかえり

思うようにいったこと、いかなかったこと、さまざまにあるのは当たり前ですが、やはり挑戦を志した年でもあり成功や失敗を多く感じる年だったと思います。特に重大行事だったのは、

・林英臣政経塾

・青年会議所

の2本柱であり、中でも青年会議所で参加できた事業、そして地域での活動で得た経験は大きく、参加出来てよかったと心から思います。林英臣政経塾は復習をもう少し力に入れるべきだったと反省しきりで、来年以降、塾の一員として頑張る以上、今年の復習ではなくもう一歩先を考えた計画で望みたいと思います。

来年はあれもしたい、これもしたいとありますが、希望的観測で書くならば

・熊野古道の散策

・伊勢神宮に行ってみたい

あたりでしょうか。靖国神社の展示も変わるようなのでそちらも見に行きたいですね。井沢満さんの祓文は本当に感動しました。来年も良い年でありますように。

2012年12月21日金曜日

復興する大人の背中を見せたいんだ


「復興する大人の背中を見せたいんだ」

昨日、石巻青年会議所から須田町長が卒業しました。
はじめて会った時に当時懸案だった案件の憲法条文をすらすら読み上げ、JNSCで会うたびにもっと話したいと思っていた、とてもしっかりした方です。

皆様の卒業スピーチはとても素晴らしいものでした。
笑いを取った彼、率直な感想の彼、感極まっている彼。
須田町長のそれは笑い半分、まじめ半分の内容で、中でも興味を引いた一文があったのでご紹介。

「(思想は関係なしにと前置き)成人式などに出た時、国歌を歌うわけですが、歌う子が少ない。なぜ少ないかといえば歌う大人が少ない、歌わない大人の背中を見て育った子供は当然歌わない。JCソングや国歌を大声で歌う男が私です。私が見せたいのは復興に微力でも立ち向かう男の背中なんです」




暗い中のメモで趣旨しか取っておりませんが、こういう内容でした。
しっかりと彼の背中を見て学び、石巻の復興に尽力したいと思います。

2012年12月20日木曜日

石巻青年会議所卒業生の皆様、ご卒業おめでとうございます

選挙期間中はネットは触るまいと誓い、やっと解禁でございます。

昨日、5名(うち4名出席)の皆様が石巻青年会議所を卒業致しました。

特に私にとって縁の強い方が3名おられ、さびしい思いでいっぱいです。

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一年、委員長と共に頑張りました。

でもまだまだできたような気もするし、いっぱいいっぱいだった気もしてどっちつかずです。

中途半端な気持ちの中ですが、力を注いだ事業でありがとうと言われる感覚はこの上なく誇らしく、去年の同じ時期に言った通り、委員長だからこそ応援できたのですとしかお返しできません。

こちらこそ、一年ありがとうございました、まだまだ未熟な私ですが、来年も頑張って参ります。

約束した通り、今度を楽しみにしております!

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目閉じてるし…

2012年12月3日月曜日

特定失踪者問題 講演会に参加してまいりました

特定失踪者 477人

宮城県にも3人いらっしゃいます

この数字はあくまで、北朝鮮による関与の確率が一定%あるという方の統計です。

おそらく疑わしいという方も含めれば相当な数にのぼるのではないでしょうか。

私は、この問題の根本には国内での歴史認識問題が大きなウェイトを占めているように感じます。

はじめて「北朝鮮による拉致」という言葉がメディアに出たのは産経新聞と記憶しておりますが、私が伺っているところによれば当時は議員、官僚、マスコミとあらゆるものがこの事件を否定してたと聞いています。この世の楽園と喧伝した時代の遺物がひとつ、そして、「殴った相手」だから「殴り返せても仕方ない」という贖罪論がもうひとつ、双方が舞台にのり、このような悲劇を生んだのではないでしょうか。

民主・藤井氏が引退「平和と民主主義つぶさないで」/神奈川

こういった論こそがその典型であり、許せないことに他人の罪(それも冤罪である)を贖罪する自分に酔いしれ、生け贄として国民を差し出すことで権力を手にするという政治が蔓延しているのが現状です。大東亜戦争に関する意見に関して、食い違いがあるのは仕方がありません。しかし、その食い違いの多くは事実誤認、メディアの誤報からきており、今回の講演会で挨拶をした元議員はそれを知っていながらなお外国人参政権を進めるという暴挙に出ている元議員です。これはもはや何らか力学あると考えられても仕方ないと思います。

河野談話見直し発言、安倍氏が軌道修正

英霊が何を望んでいるかと言えば、彼ら拉致被害者の一日もはやい帰国である。荒木和博氏の言葉ですが、本当にその通りだと思います。

震災後、救う会での街頭署名数が増えたそうです。多くを失ったここでこそ、失うことのつらさがわかるのかもしれません。まだまだ被災地から発信できることがある、そう確信した講演会でした。

拉致被害者の方々の一日もはやい祖国帰還を願い、周知につとめたいと思います。

2012年11月28日水曜日

メデイアって何だろう?

http://matome.naver.jp/odai/2135401557625203401?fb_action_ids=3509475795829&fb_action_types=og.likes&fb_source=other_multiline&action_object_map=%7B%223509475795829%22%3A539203092774749%7D&action_type_map=%7B%223509475795829%22%3A%22og.likes%22%7D&action_ref_map=%5B%5D

私は倉山満先生に長く指導を賜っておりました。

仙台で倉山先生の復興構想を聞いたとき、これだ!と思った訳ですが、どうもメディアはそれをさせたくないようです。

経団連会長も

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20121126-00000582-san-bus_all&1353921268

そもそも円高放置をずいぶん非難していた気が…

禁じ手というか、中国、アメリカ、その他諸外国で行われている気が。

普通であれば、偉い人や著名な人が言っているのだから、これが正しいの「だろう」となるのですが、だがちょっと待ってほしい。

このままデフレを放置し続ければ国内の中小企業にとってのダメージは取り返しのつかないものになります。多くの中小企業は国内での需要で経営している訳で、今は少ないパイの取り合い状態。また、消費税が増税されればさらに消費は冷え込み、貨幣は流動せず、企業の息は止まってしまいます。コストカットの美名のもと、ものづくりに従事する労働者は減らされ、今やその波はサービス業にまで来ております。もちろん技術の進化という側面はありますが、その根本にあるのは国内の経済が凍り付いて動かないという点にあります。

ここでパイを増やすのに、何をためらうことがあるのか。

被災地の今を見るに、増税をすれば間違いなく被災地は終わります。

また、大規模な財的支援がなければこれも間違いなく終わります。

被災地での会合や青年会議所に出てみると、それはそれは皆さん頑張って復興に邁進しています。

これから社屋、家屋を建てる方、設備に再投資しなければならない方、ここに需要があります。

リフレでお金を刷ったところで消費に消えることはここでは確約されているわけです。

メディアはやれ復興だ、支援だと流しますが、肝心なところで世論誘導をはかる。これは何なんでしょうか。

あらためてメディアの本質を見た気がします。

2012年11月21日水曜日

石巻青年会議所公開例会/OB例会

すっかり写真を取り忘れているあべとしきです。

公開例会は石巻グランドホテルにて。

六華亭遊花さんの公演をメインに、東北から多くの芸人が来てくださり、お客様もたくさん来てくださいました。

落語などはあまり聞いたことがない私でしたが、東北弁をまじえた芸は非常に面白く、方言をもっとつかうべよ!というのはまったく同感であります。

特に会議所メンバーも久しぶりに外で笑ったのではないでしょうか、何かと緊張を強いられる毎日かと思いますが、ほっとしたひとときを味わえて、あらためて明日への活力を蓄えられたと思います。ありがとうございました。

2次例会では硫黄島事業について簡単に報告させていただきました。

急なフリでしたので文脈がまとまってなくて申し訳ない思いです、卒業例会で時間をいただけるようなので、それまできちんとまとめなければ!

20日はOB例会。

ゲスト:TBSビジョン 元エグゼクティブ・プロデューサー 本間修二 氏

テーマ:「甦れふるさと石巻―知られざる歴史を今こそ掘り起こす―」

一般参加の方が多く、異例(笑)のOB例会となりました。

お話は非常に面白く、金華山を中心にした歴史を年表から紐解き、霊山や弁財天をからめて石巻の歴史を蝦夷から解説するというびっくりした内容でした。

石巻に育った私ですが、実際のところ鋳銭場として発達する前の石巻はぼんやりとしか想像できません。

昔塩田もあったようですが、資料のある文化センターは現在閲覧かなわず、なんとなーく港町だったんだろうなあという認識でした。

しかしそうではなく、風水や地政学面からさまざまな謎が、石巻市にあるというのです。

以前、「なんでも鑑定団」をぼんやり見ていた際、金華山号という明治天皇の御料馬の話題が出ておりました。

番組中ではその出自までは言及されてなかったので、金華山で生まれた馬なのかなあと思っておりましたら、鬼首の馬とのこと。

ここに謎があり、どうして金華山と名前をつけたのか。

奥州藤原氏が石巻の神社群を建設した訳とか。

かつてあった弁財天像とその系譜とか。

などなど。

時間が足りず、特に蝦夷との兼ね合いについてよく伺いたかったのですが、途中での幕となりました。

ぜひ次の機会を待ちたいと思います。

故郷にこういった歴史があるというのはうれしいものです。

特に共感した部分は「今物語が求められている、石巻の歴史を物語り、歴史と文化の再興をすることが町興し、復興へとつながる」という最初に本間氏が語った言葉です。

数年前からサブカル市場では、ある種の物語切れが起きているのではないかなと感じておりました。ハリウッドが日本のライトノベルを原作に買い付けたり、漫画原作のドラマが増えたりする要因には、既存の焼き増しの物語が増え過ぎ、物語が「語られるもの」から「消耗品」と化した点にあるのではないかと思います。

そうしたとき、石巻から語るべき何者かがあるとすれば、それは歴史と文化に根付いたものでなければなりません。

そのヒントを得られたような気がしてなりません。

充実した二日間をありがとうございました。

2012年11月18日日曜日

自分の系統

以前、仙台である方が、阿部の名前は安部と親戚だ、というようなお話をしておられ、感心しながら聞いていた次第です。

石巻には石を投げれば阿部にあたるほど阿部に多く、これだけ数がいると自分のルーツだとかにあまり関心が持てなかったわけで、仙台でのお話は「そんなお話もあるのかねえ」とうらやましく聞いておりました。

祖父の死から親戚付き合いが密にしようと思い、あれやこれやと話を聞いておりましたら、本家でも仙台でのお話と同じ、阿部のルーツを聞かされてびっくりしました。

いわく、

・八代孝元天皇に通じ、大彦命を父に兄が阿倍、弟が高橋になったらしいこと

・もともとは阿部水軍で強い山賊であったこと、九州の出であること

・阿も安ももともとは阿部であり、料理番であり侍であったこと

・秋葉神社にその痕跡が見られること

安倍頼時安倍貞任がルーツである

などなど、親戚でここまで郷土史に詳しい人間がいたことにまず驚き、感動です。

素人調査なのでどこまでが本当かは謎ですが、仙台でのお話にも合致する部分が多く、Web情報にも合致します。

石巻は天皇ゆかりと思われる地名も多く、意外と面白い土地なのかもしれません。

ある宮司さんから聞いたお話で、歴史ミステリー小説の題材にもなったとかならないとか。

郷土史というとどうしても記録が比較的ある江戸期以降、というお話しになり、石巻は鋳銭場からスタートしてしまいますが、古い部分を紐解けば面白い話がまだまだ眠っているかもしれません。

そういう町興しもひとつかな、なんて。

2012年11月13日火曜日

東松島市はスピードがはやい

農家の方とお話していると、やはり放射能の心配をされる方が多くいらっしゃいます。

私は東日本大震災からの放射能については大丈夫、原発は長い長いスパンで廃止にし、経済に影響が出ない形で次のエネルギーに移行するを良しとしておりますと明確にした上で。

放射能についての議論は多数ありますが、決定的に忘れられている点が生産者の気持ちです。

少しでも、法的に悪と定義されているものが入っているものを出荷していいのだろうか?

そういう矜持を持って仕事されている生産者は決して少なくありません。特に宮城、茨城あたりは放射能被害という名の言葉ばかりが先行し、実際それどうなんですか?という部分はどこにもデータがありません。上から定められた数字だけが一人歩きし、振り回される生産者をみると大変気の毒でなりません。

先日、め組JAPANの方とお話しした際、私から問いかけた言葉があります。

「被災地の復興とは何だと思いますか? ゴールはどこだと思いますか?」

「自立だと考えています」これが答えで、私も非常に共感しました。

当初、大きな力になったボランティアですが、今も残るボランティアの中にはさまざまな思惑があるようでなりません。

そんな中、アプローチは違えども同じ目標を持って共感できる方がいることは大変うれしいことです。

その自立に際し、最も必要なものは産業です。

向こう5年、10年は観光化した土地柄でやっていけるでしょうが、その先を見たとき、私たちが持つ地場のちからが無ければ自立できません。

そうした先を見据えれば、今、疲弊する生産者に何をするべきか、何をしてあげるべきかを考えなければいけないんじゃないかなあと思います。

そしてひとつ、重要なことは先の震災対応に関する総括が全くできていないこと。

国レベルでも市レベルでもそうですが、感想文ではなく次の有事にどうすべきなのかを改善しておかなければいけません。

先の宮城北部地震で被害のあった東松島市は非常に対応がはやく、がれき処理単価も石巻と比べ非常に安く(ここは行政レベルで異論が出ておりますが)、そして本日、被災した商店街で商品券販売を開始しました。かつて麻生政権の際に行われた定額給付金、エコポイントなどは政権が変わった後に経済にプラスの影響を与えたことを考えれば、経済を流動的に動すポイント制度や商品券は積極的に活用すべきです。

同じように後々に経済が動くでしょう、しかし、未来を引き寄せる力が政治にあると思います。ぜひ、生産者=産業のため、未来のための政治に期待します。

2012年11月3日土曜日

第37回歴史講演会「近代日本を興した礎 明治天皇」に参加して参りました

仙台ビジョンの会様の歴史講演会は、毎回内容が濃く政治に関わりを持つ身としては為になるお話ばかりで楽しみにしております。

講師は日本政策研究センター主任 岡田幹彦先生です。

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明治天皇の政を歴史軸に沿ってお話されました。

日露戦争の英雄豪傑たちの重用や、歌聖としてもちろん。

特に教育勅語については、戦後に要らぬ曲解を受けましたが英訳で本にまでなった素晴らしい文章です。

先日、ある宮司様とお話していた際、ある閣僚経験者が教育勅語の成り立ちについて、

「日本はユダヤ経典や聖書のような基軸がない為、教育勅語が出された」という内容の発言があったそうです。

事実は、明治天皇が各学校をまわった際、極端な欧米化が日本古来の道徳の腐敗を招いていることを知り憂慮され、結果、教育勅語が生まれたのが事実です。

先日の硫黄島でも少し触れましたが、教育勅語が自決や玉砕の元になった論が未だにありますが、そんな内容ではありません。

12の徳目

親に孝養をつくそう(孝行)

兄弟・姉妹は仲良くしよう(友愛)

夫婦はいつも仲むつまじくしよう(夫婦の和)

友だちはお互いに信じあって付き合おう(朋友の信)

自分の言動をつつしもう(謙遜)

広く全ての人に愛の手をさしのべよう(博愛)

勉学に励み職業を身につけよう(修業習学)

知識を養い才能を伸ばそう(知能啓発)

人格の向上につとめよう(徳器成就)

広く世の人々や社会のためになる仕事に励もう(公益世務)

法律や規則を守り社会の秩序に従おう(遵法)

国難に際しては国のため力を尽くそう、それが国運を永らえる途(義勇)

Wikipediaからそのまま引用します。

この内容は当たり前のことです。しかし、これを遠ざけてしまった戦後の一時期以降、我が国の道徳はどこか安定しない、曖昧なものになってしまいました。

道徳の根幹にある「勇気」の部分が「暴力」と同一視されている点。これは大東亜戦争の敗戦以後、暴力に対する潔癖症が推し進んだ結果、自衛すらままならない国家観によく現れています。この問題はいわゆるいじめ問題(暴力事件)に顕著に出ていると私は考えます。私もいじめ被経験者ですが、最後は自衛することでいじめは終わりました。

力には、必ず力で抗せよとは言いません、しかしそれを実行する勇気を持つことは、自衛の根幹であります。

今はとにかく暴力はいけない、話しあおうという極端な状態にあります。子供らのためにも、怒るときは怒る、屈しない、抵抗する、そういう見本をつくることも、大人が社会で出来るいじめ対策かと思います。今はとにかく外交分野が情けなく、子供もシニカルにそこを見ているように思えてなりません。

そして、共通した美徳がない点も、いじめ問題に拍車をかけているように思えます。

多様化した価値観のある現代ですが、教育勅語には人間として共通の善が定義されていると思います。

子供たちに教えるべきは、誠実さ、絆、勇気、そういった行動の伴う美徳であり、立ち位置によって変わる正義や自由、人権などではありません。

今後、教育の見直しが進む中、震災で素晴らしい道徳を見せたおらほの町でこそ、教育勅語の価値の見直しが進むと嬉しいのですが。

2012年11月1日木曜日

公益社団法人 日本青年会議所 硫黄島事業レポート

公益社団法人 日本青年会議所 国家グループ「凛然とした誇りある国家」創造会議 様

関東地区協議会 人的資源創造委員会 様

また、参加に際しご協力頂いたさまざまな皆様、貴重な機会を頂き本当にありがとうございました。

硫黄島はWikipediaにある通り、東京都に属し1200km南下した小笠原諸島南端にあります。

尖閣の一件で、地理的な要因をあげて東京都所有を現実的でないという論を唱えた方もいましたが、こういう事例もあるということです。むしろこちらは法的要因の方が強いのですが。

硫黄島といえば、「硫黄島からの手紙(Letters from Iwo-Jima)」が有名で、地上波でも放送されていることからこの映画で歴史に興味を持った方も多いと思います。

栗林中将の思いと苛烈な戦いを描く素晴らしい作品ですが、今事業ではそこで語られない重要な事実が、全体を通してありました。そこはまとめにするとして。

元タイトルでIwo-Jimaとあるとおり、「いおうじまからのてがみ」と読みます。

しかし、硫黄島の読みはいおうとう、になります。2007年に旧島民に調査をし、呼び名が混在していた状況を日本側で整理しました。私も呼び名で迷ったことが何度かありましたので、自分のためにもメモしておきます。

一日目は事前勉強会に参加し、八木秀次先生、作家の北康利先生、 衆議院議員で栗林中将のお孫さんにあたる新藤義孝先生より、ご講演頂きました。

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また、ワークショップを開催し、防衛はどうあるべきか、愛国心とは何か、国とはどうあるべきか、誰の為に戦うのか、4つの問から、あるべき日本を班ごとに模索しました。

私が特に感動したのは、一般参加のある女性の発表で「私は女だから戦えないけれど、後ろで精一杯頑張って応援する」という内容でした。

こういう風にかけば、やれ戦争美化だ、マチョイズムだと言われますが、まさに「誰の為に戦うのか?」

その問に多数を占める男性参加者が家族と応える中、女性から「私も出来るところで」という発言があったことは非常に嬉しく、だからこそ硫黄島は戦えたのだと思います。

スポーツは選手だけで戦えるものではなく、そこを支えるサポーターや家族という存在があって、たとえばメダル、たとえば記録に届くものです。

あってはならないことですが、もし、あとに引けない戦争があるのだとするのならば、何の為に戦うのか、そして、戦ってくれるのか、そこを問いなおすことが、日本の過去に求められている最も大きなミッシング・ピースだと私は思います。

二日目は硫黄島へ出発。

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自衛隊の輸送機C-130に乗って2時間40分程度の行程です。

硫黄島で使用されている滑走路は米軍が敷いたもので、ご遺骨がいくつも眠ってらっしゃいます。

その上を着陸、離陸するわけですから、自衛隊の方は常に手を合わせて慎重に操縦するそうです。

基地内、滑走路は撮影禁止でしたので、こちらのスローガンを。島がどれだけ過酷なものか、よくわかると思います。

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昼食と説明の後、慰霊祭を天山慰霊碑にて。

碑の上が抜けているのは、地下で闘いぬいた先人たちが、もっとも欲した太陽の光と水が降り注ぐようにという意匠だそうです。

IMG_0831-2012-10-31-10-17.JPGかつてのむらの跡、硫黄ヶ丘。

IMG_0835-2012-10-31-10-17.JPG偽装滑走路跡地。

IMG_0849-2012-10-31-10-17.JPG 兵団司令部壕。大本営に最後の打電をした場所です。

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医務科壕。

こちらは小規模の壕で、中に入れました。飯盒の跡やヘルメットなどが生々しく残っております。

中はだんだんと熱くなり、奥はすさまじい熱気でした。火山の為、地熱が高いのです。

この熱気の中、18kmもトンネルを掘り、一月半ばも抵抗していたことに、畏怖を感じます。

右の写真は空気孔で、下は空気が流れて少しひんやりしております。聞けば、掃討戦の際、米軍はここから海水、そして油を流し入れ火をつけました。それがゆえにご遺骨の把握が難しいとのことです。また、壕内部は70度になるところもあるそうで、ご遺骨がそのままになっているのが大変偲ばれます。

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そして摺鉢山の頂です。

ここで壮絶な旗の取り合いが行われました。

アメリカのピューリッツァー賞を取ったあれは二本目の旗です。一本目は建てた後、すぐに日本軍が日の丸を掲げ返しています。

また、聞いた話ですが、二本目の日の丸もあったそうで、それは白い布に血で日の丸を描いたものだそうです。やれ国旗がいかん、国歌がいかんという方もおりますが、旗というものの大事さを示すエピソードであり、今生きている感謝は彼らの旗に対する気概のおかげであると認識すれば、国旗のありがたみをもう一度考える機会になるのでは。

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この海岸線から戦いがはじまりました。

島はいまも隆起、侵食を繰り返しており、当時とは形が違っております。

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とても太陽が近い、それが上陸して一番最初に思った感想でした。ついで硫黄の匂いと、群生する緑色。

島全体を覆う緑は合歓の木で、戦闘終了後、遺体と死臭だらけの島を隠すために、米軍が上空から種子を散布したものが、今は島の大部分に繁殖しています。

たまに見かける小さな花だけが緑の中で色彩をつけます。

私は同じく激戦区だったペリリュー島の間近まで行きましたが、観光地化してしまい、当時の面影はほとんどないそうです。この島は時代の影にあり、当時の乾いた土が歴史そのままに残っています。

その乾いた土と、借り物の緑、あとは空の色だけの、とてもさびしい島だったというのが私の感想です。

なぜこの島を護らなければならなかったのか。

地政学という言葉は、哲学同様日本ではなかったことにされたジャンルですが、この島の立地は米軍の本土への爆撃コースの真下にあり、当時の航続距離、迎撃の危険性から島の攻略は必要不可欠でした。

日本側から、この島で戦った先人の思いからすれば、栗林中将の言葉通り、この島を護る一分一秒に意味がある、この言葉に凝縮されていると思います。

もはや連合艦隊も失い、補給のあてもない中で籠城にも似た戦いを行えた理由は、戦陣訓でも教育勅語でも軍国主義でもありません。日本とそこに住む、住んでいく人々に少しでも長く平和を与えたい、その願いなくしてどうして、有害生物、硫黄の悪臭と水不足、地熱と悪天候、降り注ぐ太陽さえも敵になる土地で戦い抜けるでしょうか。

私はただただ先人へ感謝するとともに、このさびしい島にいまだ残されている方をはやく本土に戻してあげたい、それが先人への礼儀であります。

そして先人への本当の慰霊として、次世代につなげていける日本の再構築を実践することが必要であるとの想いを強くしました。

硫黄島をはじめ、大東亜戦争で亡くなられた多くの方々の共通した思いがそれであります。

決して個人主義の蔓延や、道徳や誠実さの無価値化、正義の消失、歴史の喪失などを期待して戦ったわけではありません。

今を生きる我々は、過去からの遺産としてついつい金銭であったり、財産であったりと形あるものや概念に拘りがちです。しかし一方、この歴史の中に生きる先人の思いを受け継ぐことも相続であると認識し、よりよい日本、明るい豊かな世界の中の日本を目指す義務があるように思います。

最後になりますが、靖国神社遊就館で行われております大東亜戦争開戦70年展。その展示。

『君よ 桜花に一掬の涙を注げ』

放送作家の井沢満さんの祓文ですが、私が8月に展示を見た時、泣いてしまいました。

硫黄島への着陸の際もこの展示を思い出し、不覚にも涙がこぼれてしまいました。

「戦があり、いくつもの別れがありました。

 防人たちにもそれぞれの別れの言葉がありました」

この言葉からはじまる祓文ですが、自分が今、家族とともにいる幸せ、不幸だ未来が暗いと嘆くことの出来る幸せ、まだ矢弾さえ尽きておらず未来を選択できる幸せ。

この硫黄島においても、私よりも年若い先人が戦地に赴いたのかと思います。それは、これらの幸せを残すため、自分を犠牲にして我々に未来を託してくれたのです。

我々は硫黄島と共に日本を託されたと思わなければなりません。

子供たちによりよい未来を残すため、我々が、子供たちが世界をよりよく出来る機会を残すため、日本は豊かに、明るく発展していく必要があるのです。

蔓延する悪平等や、経済格差、見え隠れする貴族主義などを打破する本当の鍵は、歴史にこそあると確信します。

今事業に参加できて本当によかった。心から感謝申し上げます。

2012年10月31日水曜日

ひさびさにBlogに戻ってみる

MacJournalで管理を試みつつ、長文作成はBlogに戻してみます。

Facebookでもよいのですが、写真をあげての解説に向かないことを痛感させられました。

2012年4月24日火曜日

神戸にて、親遊会様ありがとうございました

震災の縁はありがたいもので、神戸プライベートフェニックス様からお招き頂き、なんと神戸でお話させて頂けました。

1日目は神戸の震災、復興の現状を教えて教えて頂きました。

特に、神戸の復興がどうなっているか?
東日本大震災の被災地である石巻は、そこから多く吸収できるものがあるはずです。

その成功と失敗を石巻に持って帰りたいという意気込みで、現地親遊会の長瀬たけし様、大塩様に案内して頂きました。


上の商店街が衝撃的だったのですが、ハコを立てて終わりになった商店街だそうです。

シャッター通りは日本全国で共通した課題ですが、震災前の石巻も例外ではありません。復興という美名に甘んじて、住民の意思、地場の特色を軽んじると震災前と逆戻りです。
せっかく復興するんだからいい街をつくろう、その意気込みが今必要ではないかと思います。
とかく震災前に戻せばいいという流れがありますが、日本は震災前からデフレだったわけでそこではいけません。被災地に今ある需要をどう日本のデフレ脱却につなげるか、国政レベルのお話ですが、これは被災地でも考えるべき問題です。

その後、西田昌司先生と神戸で衆議院に挑戦される山田賢司様とお会いさせて頂きました。

私は自民党員ではありませんが、震災当時、仙台の方を通して西田先生が支援してくださったマスクは市内の病院で大活躍しておりました。ありがとうございました。















二日目、一時間ほどお話させて頂く時間を頂きました。被災者として今必要なこと、防災、そして復興の原動力について、生の声として精一杯語らせて頂きました。

震災に負けないまちづくりといいますが、その主人公はそこに住む住民です。
私達がどういう思いで復興に望むのか、応援いただいている皆様にお伝えできた良い機会だと感じました。

皆様の貴重なお時間を頂き、本当に有難うございます。




最後に、念願であった感謝の横断幕を海上自衛隊にお渡しし、幕です。
素晴らしい二日間をありがとうございました。これに応えて石巻で頑張ります!

2012年4月8日日曜日

林英臣政経塾4月例会

先月、今月は何かと忙しく日々があっと言う間に過ぎていきます。ゆっくりと桜見物ぐらいはしたいものですが。



今回は文明法則史学(村山節先生の著書参照)から日本の歴史について学び、「今」の座標はどこか?という点を学びました。
言うまでもないことですが、日本は大変に危機的状況です。
原因については各々の見地があるでしょうが、私個人は過度の依存体質がその根幹にあると考えております。
依存するということは自身を持たないこと、自身を持たないということは生み出すべきデザインを持たないこと、デザインがないということは何も作り出せないこと。

政治もそうですが、あえて経済に目を向ければ、私も愛用のiPhone、この背面には
Designed by Apple in California
Assembled by China
とあります。
これは古いApple製品でも同じだったと記憶しています。私はジョブス大好きっ子ではありませんが、Appleのモノヅクリへの姿勢には学ぶべきところがあると思います。
デザインは俺達がやっている、そういう主張をずっと続けてきたのですから。

デザインはもちろん大変なことですし、私自身も公私にわたり悩んでおる部分なのですが、やはりデザインを自分をものに出来たところは政治であれ経済であれ、そこに矜持を持ちます、だから強い。そして矜持があるから盗作やパクリは嫌われる。

日本の出発点はそこからなのではないかなと講義を受けて感じました。
矜持を持ち、いつか言葉にするために、今はひたすら学びの日々です。

2012年3月30日金曜日

自転車について

ふと、仕事中、車で動いていた時、自転車事故を目撃しました。
学生が横断歩道を通行中、確認なしで進入してきた車両に当てられたようです。幸い大事ではなかったし、周りの人も次々助けに入っておりましたのですぐに収拾ようでした。

自転車は基本的に車道を走るものと法もありますが、残念なことに日本の車道は自転車が走るには適していません。競技用となればちょっと踏めば時速30キロまで余裕であがる代物です、歩道を走るのはもちろん危険ですし、高速では不意に出てくる車両や歩行者を避けようもありません、が、日本の車道は路肩が狭く走りづらい為、道道で走る場所を変えているのが現状です。

無論、競技用というシロモノですから、競技できる場所で走るのが筋であります。
車同様、道路で楽しませてもらっている趣味ですから、住み分けができるよう、法と現実、そして環境の整備が必要かと思います。
特に歩道の場合、濡れたマンホールなどはスリックで乗ると一発で滑りますから、出来れば車道を走りたいのですが、路肩が狭いとぎりぎりで抜かれるので風圧でバランスが崩れる、怖いとなかなか難儀しております。

さて、被災地では自転車が増えたように思います。
住環境の変化もあるし、車両が流され自転車で代用している方も多いわけで、自動車で走られる方は左折時に気を付けないといけないのかなと先の事故を見て思いました。
私自身、震災後2回ほど轢かれそうになったことがあり、特に車道を走る際は車の動向に気をつけて運転しております。

ある意味でリセットされている街ですから、道路だけではなく自転車道にも配慮したまちづくりにすれば、住みやすい街になるんじゃないかなあと思いました。
ニューヨークや北ヨーロッパあたりではもう道路の脇に自転車道を設置しています。国土の狭い我が国ではなかなか難しいかもしれませんが、たとえば第一車線を50センチ広くとってもらうだけでも変わってくるのかなと思います。

特に震災後の環境変化がありますから、なるべく子供を安全に登下校させる道路整備も並行しなければ石巻市に残ってくれる人口が減るばかりなのかなあと心配になったり。

2012年3月26日月曜日

同志の活躍を素直に喜べ

という誓が林英臣政経塾にあります。
先程NHKをぼんやりかけておりましたら、林英臣政経塾で共に学んでおる渡辺勝幸さんが取材されておりました。
維新政経塾とふたつ、並行して学ぶその姿勢には本当に感服致します。
ぜひ持ち帰って頂いたものを4月講座で学びたいと思います。

負けないように頑張らねば!というわけではありませんが、本日は午前中は市役所で打ち合わせをし、午後は地元経済誌とのお話です。
経済誌とのお話なのでなるべく経済面でのお話をするつもりだったのですが、どうも話していくと政治で詰まってしまいます。
社会構成、経済流通、制度設計、さまざまに絡む力学の中で、どうも政治が復興どころか足を引っ張っている、その点を会話していく内、改めて実感させられました。
とくに若者に責任と決定権を、という内容でお話ししていく時、自分でも気づかないところにアイディアが潜んでいるものだと会話の大切さを実感させて頂きました。

私がとくに重視する要素に、実際に会って話す、という部分があります。
会って話すときのその情報量はネットの文章から得られないものがあります。それは知識としてのそれではなく感情としての情報です。本日お話ししていく中、ある震災において殉職なさった警察官のお話になったところ、知らず知らず記者さんと私と涙声になって会話していました。

交えた感情の中で、私の願いでもある前進の意味、背負って進むという復興の在り方の意義を再確認致しました。本当に有意義な時間をありがとうございます。

2012年3月25日日曜日

大阪盛和塾様

青年会議所より大阪の盛和塾様と交流会があるとのお誘いがありましたので参加させて頂きました。

紆余曲折があり、遅参してしまい大変申し訳ありませんでした。
被災地の具合とそこからの展望などをお話させて頂きましたが、下敷きなしの状態でしたので満足頂ける内容だったかどうか。

交流会で感じたことは、とにかく関西は熱い!
私が副代表をやらせていただいておる石巻復興支援会、こちらと繋がっておられる関西勢と繋がりの方がいたりして、いやはや、世の中狭いものだと実感させられます。

ついぞ考えさせられますが、これだけ熱い支援がある中で、我々自身が被災者としてどうあるべきかについては誰も語っていないのだなと感じます。
経済的な応援、精神的な応援と、一年が過ぎた中でも様々に皆さんが時間を使い、被災地のためと頑張ってくれておる中で、我々自身が立ち上がるという単語を、私は説得力在る言葉で聞いたことがありません。

おんぶだっこではいつか破綻し、見限られます。
ビジネス、勉強でもそうですが、期待に応えてこそ成長と結果がついてくるもの。応えるとは成功や失敗ではなく、進む意思です。我々が被災者として出来ることは何か、被災地から日本のためにできることは何なのか。一歩進んだ視野で政治、経済、社会と動いていかなければならないなと思います。

交流会の後、ロードバイクでポタリングしながら帰宅です。
少しはカロリー消費したかしら。

2012年3月24日土曜日

松島 竹の学校

某社長松島までボランティアに行って参りました。




















石巻からわざわざとびっくりされましたが、今回はその目的とスキームが面白いので参加致しました。

内容は竹林の整備です。
竹は一年で強いもので一メートル伸びるものもあるそうで、と、なれば竹林がいつの間にか民家に侵食してくるケースが年々増えているそうです。
同じように後継者のいない林業、そして管理者のいない山や農地など、人間が田畑から都市へと居住空間を変えるにつれ、かつては人間が手をかけ共生していた自然がかえって厄介者のようになってしまう。
とくに農家など、若い手のないところにそのしわ寄せが来ており、そういったところでボランティアなどを有効活用するのは非常に良いアイディアだと思われます。

町ぐるみでの応援もあるようで、宿泊は地元大観荘(ここのフレンチはなかなか美味しい)で、指導は林業組合でやってくれます。こうした後押しがあれば、ボランティアを受け入れて自然の整備などもやってみようという気持ちになるでしょう。

あとは一番に予算ですが、こればっかりは地方自治での裁量では厳しい。
一方でここに職がある、給料があるとなれば人も集められるはずなので、国単位でのバックアップが必要かと思います。ワープアや就職難の本当の正体は、金の総量にあるのではないかと日々思います。被災地復興もそうですが、需要のある今だからこそ紙幣増刷の効果があるのではないでしょうか。

余談になりますが、農家の方で休憩させてもらっている折、ふとした話題から領土、国家意識という話題に発展致しました。私と社長以外は学生さんでしたが、皆よく考え、よく情報を調べているなと実感しました、若い人はよく勉強しています。

2012年3月20日火曜日

批判からは何も生まれない

本日は懇意にしていただいている社長と友人で居酒屋です。

「批判からは何も生まれない」
という言葉を本日は頂きました。

批判の要不要の話ではなく、そこに案がなければ希望がない、希望のない批判は矛でしかない、という智だと思います。
とくに昨今「アラ」が見えやすい時代、社会、世相ですと批判することが目的化することが多々あります。事実、去年の私の様を見て、本を読め、これを読めと進めてくれた大先輩がおり、今さらながらこういうことを言いたかったのかと得心致しました。
幸い、先日のスピーチの反響はなかなか良く、主張と批判と未来を、順番はともかく混ぜてしゃべっておったのかなあと自己採点しておりました。

希望というものは非常に難しい。
人気取りのためならば何でも言える気がしますが、それでは芯のない希望になってしまいます。かといって現実主義では未来を引き寄せられない、政治とは未来をたぐり寄せるツールだと私は思っておりますゆえに、どういうビジョンで何を言葉にすればいいのか、まずはそこをきちんと腹から出せるよう、精進しようと思います。

2012年3月19日月曜日

言葉って難しい ><

先週はとにかく忙しく、4日間は仙台にいる状態でした。

その中でも青年会議所の例会、地元企業とのお話し合いなどなど、充実した日々を過ごしております。
日曜日は20分程度スピーチする時間を頂いたのですが、原稿作りのコツを林塾で同期の渡辺さんにお聞きしたやり方で挑戦してみました。

結果、内容としてはまずまずまとまっておりましたが、やはり早口 ><
原稿をつくった場合、文語であるがゆえの問題と早口が問題だと思っていましたが、原稿なしでも症状は改善しません。
靖国ではかなりいい線いけてたので気持ちの問題でしょうか。
次はがんばります。

さて、肝心の中身ですが、言いたいことは言えたような気がしますが、なんとももどかしい。こういう言葉がよかったのではないか、こういう展開のがよかったのではないか、終わったあとに来る反省の念は非情に強く、毎回乗り越えるのが大変です。

諸先輩方を見ると非常に素晴らしい言葉をつむぎますので、まずはそこから盗んでいこうかなと思います。

2012年3月11日日曜日

あれから一年、復興は成ったのか

一年が長いか早いか、その主観や行動によるところが大きいのですが、私自身は(ある意味誤解される言い方ですが)充実した長い一年だったと思います。

震災直後、ある尊敬する方が私に言った言葉。
「もう日常には戻れない」
という言葉が、様々な意味できっかけになりました。
そういう出会いやきっかけという意味では非常に充実した、一方でこの悲惨さに何度泣いたことかわからない一年です。
引っ張ってくれた友達に本当に感謝したい、絆という言葉の意味を噛み締めた一年でもありました。

その仲間と活動する「石巻復興支援会」の中で評価されてきた「自主・自立の理念」はどこで語っても恥ずかしいものではなく、むしろ共感をもって聞いてもらえたことが大変嬉しく思っております。
この理念を持つに至ったことは、「石巻復興支援会」の中で共有される被災現場の情報と、市政から感じられる教育、精神的復興への関心のなさがきっかけでした。

今はいいだろう、炊き出しやボランティアも大勢いる、しかし彼らは一過性のものであるべきです。我々の祖先がこの街をつくってきたのだから、帰属意識を持つものが復興の主役でなければなりません。
震災後は引きこもり気味な私が信じられないくらい各所を飛び、様々な人から励ましを受け、情報交換をしましたが、応援してくれる人々に共通している復興のイメージとは「再び栄え、反映する」につきます。
一過性の応援団はほんとうに有難い、しかし応援されるプレイヤーに主体意識が無ければどうなるか。スポーツであれば面白みに欠け、仕事であれば結果は出ないでしょう。

この線引きが、今の石巻は上手くいっていない気がします。
住民をどのようにプレイヤーにし、主体意識を持って街を創り上げていくのか。
その結果次第では、ひょっとしたら日本の没落さえも吹き飛ばしてしまうだけのパワーを持っている、今の被災地はそれだけの可能性がある土地だと私は思います。

今年一年、踏ん張りどころです。

林英臣政経塾3月例会

本日は文明周期論という題材です。
村山節先生が提唱しておった学問ですが、主流派ではないです。



私の場合、学問を体系的に学んだことない分だけ幅が広いことがメリットだと思っておりますゆえに身には落としやすかったのかなあと思います。
とくに文明周期分けですが、有機体として文明を見た場合、人間同様「老い」のプロセスを踏むわけで、そこに互いの文明が影響しあうという概念は非常に面白く聞けました。

「文明の衝突」、そして挫折したフランシス・フクヤマの「歴史の終わり」に通じるものがあり、今なら読み返せそうな気がします。

人が自身の成長を自覚できるときはあまりありません。
その時その時に失敗し、挫折したことが何年か後、いとも簡単にできている、そういう体験を皆だれもが持っているはずで、それがおそらくは成長の実感だと思います。

人間は哀しいかな、小さな変化にはひどく鈍感で、大きな変化には身構え、時に否定してしまいがちです。
日本の戦後もそういう小さな小さな歪から、徐々に国家観というものが喪失していったように感じます。
私が歩む小さな一歩が、いずれは石巻の、日本の小さな変化のうねりになるよう、修身していければなと考えております。

2012年3月5日月曜日

やすくに活世塾、卒業!




無事、卒業出来ました。

最後の塾生発表ではまさかの4班全員発表。じゃんけんで負けた班長とはいえ、鼻が高いです。

紅一点が先に帰宅しちゃったので野郎どもで、お疲れ様でした!

各自の発表ですが、N君は地元で、K君は消費しない生活を、S君は僕の腹突っついてる感じですね。僕は被災地の今と日本人の問題を取り上げて語りました。最後の締めで迷ったものの、ゆっくりめに話せたので私的にも及第点です。
最初2名がまさかの原稿なし、な上に泣けてくる内容でプレッシャーが凄まじかった…

意外だったのが、被災地の現状があまり広まっていない点、当然美談だけではないし、美談もいっぱいあるこの時期、この土地だからこそ、道徳の尊さや精神の在り方について、語る言葉に説得力が増すと思います。
今、被災地から何を発信できるのか、何を発信するべきなのかを真剣に考えないと、長期的な復旧であり、本当の復興に辿りつけないかもしれない、自分はそんな危惧を抱いております。


今回、心に残った内容は、祝辞を述べられた社長様の「この塾に行かせた人間は顔つきが変わる」というもの。歴史というものを学ぶ機会が減っておりますし、額面ではなく生の感情の部分が非常に大きく心に響いてきますので、それも納得の内容です。
また、必ず設けられる議論の時間が非常によく作用しており、塾生の相互成長に一役買っていると思います。企業での研修にもこういう場はいいと思いますので、経済的な実利はないかもしれませんが、年2万円でこれが学べると思うとお得かも?!

念願であった二次会も無事行い、再会と相互連絡を誓い合っての解散です。
最後になってようやく名刺交換できた方もいましたが、ひとまずはお疲れ様でした!

2012年3月2日金曜日

活世塾、最終回

いよいよ卒業です。
正直通いきれるか不安はありましたが、様々な方の助けでなんとか卒業できそうです。

昨晩は神戸プライベートフェニックスの大塩さんと、四月に喋らせて頂ける機会を得ましたので打ち合わせを少し。
非常に斟酌して言葉を話す方なので、会話をしているだけでも学ばせて頂ける方です。

そして明日、靖国で5分時間を頂けたので発表内容を考えておりました。
靖国神社で語る機会などはめったに無いことですから、緊張しつつも自分のテーマである「被災地からの日本復興」を語ってきたいと思います。



原稿を考えている中、参考にと前回、高橋塾頭から頂いたレジュメに台湾から送られてきた「東北関東大震災祈祷平安和歌文集」を覗いておりましたところ、

・筆談で 「日本どうか」と聴く爺の 手を取りぎゅっと唇噛み締む

今年台湾に行こうと、仲間と企画しておる中ですがいよいよグッと来ました。
ほかにも20首ほど紹介されていますので、いつか折を見て載せていきたいと思います。

2012年2月26日日曜日

My日本宮城2月お茶会

土曜日は秋田。
日曜日は仙台でお茶会です。

今回は顧問の先生より、日本の軸についてのお話、そして各自より仙台での活動報告などなど。
最近縁の深い方々が教育関係を熱心にやられていて感心しきりでした、負けないように頑張らねば。

2012年2月24日金曜日

3月3日、靖国神社にて

はやいもので震災からもう一年。
果たしてこの状況で通えるのかと思いつつ、なんとか頑張れた活世塾。
ありがたくも5分、最終回で頂けることになりましたので、他の発表者に恥ずかしくないよう、私のテーマである「被災地からの日本復興」を訴えていければいいなと思います。

とくに私が思うことは、政治の本質が失われているという点。
私は熱心に政治史を学んだ人間ではありませんが、現代日本政治は調整者が大半を占めています。ある国会議員に言わせると、
「保守も革新も世論が割れるのであれば、そこはストレートに中道を行かねばならない、なぜなら真ん中を通らなければ選挙に勝てないし、我々はそれでこの地位を頂いているのだから」
とのことですが、私はそうは思いません。
両端に意見があるから間を調整しましょうでは、正しい発言や行動でさえも逆方向に引っ張られ、おかしな方向に流れてしまうことがたびたびあるからです。

調整が必要な事案というのは偏り過ぎた部分を是正するために、後から行うべきものであって最初から調整して落としましょうというのは筋が違うように私は思います。

では政治とはなんぞや?という話になると思いますが、私が間近で見て本物と思う方たちに共通している部分はその信念であり、その指導者としての決意こそが政治家を政治家と定義するものなのではないかなあと最近思うわけで。

とにかく、まずはその信念の発表の場として5分、大事に使わせて頂きます。

その前にそろそろこちらを整理しろというお話もちらほら ;;

2012年2月22日水曜日

塩釜にて

先日は不動産関係の方と勉強会でした。
講師に塩釜神社宮司を招き、新刊である「特攻魂のままに」を題材に教育の問題を掘り下げて議論して参りました。

ひとつ、日本において欠けていると思われるのは精神美です。
私ごときが講釈たれてもどうしようもない気がしますが、被災地である石巻にいるからこそ、公徳心や道徳、そういった概念を強く意識致します。それは極限にあって人間がどうあるべきか、その美醜を直接拝見し、なんと素晴らしいことだろうかと心底感動したことが私の原点にあるからです。

かつてオーストラリアへ特殊潜航艇で突入した松尾中佐は、かつて三島由紀夫が書き示した通りの見事さでもって、現在ではオーストラリアで子供たちに勇気の表し方を学ぶ題材として使われているそうです。
教育勅語がアメリカをはじめ、欧州で教育の題材として使われていることは有名ですが、中国でもこれが使われているそうです。
使っていないのは日本だけというのはなんとも摩訶不思議、あべこべな気が致します。


2012年2月19日日曜日

新しい歴史教科書をつくる会 宮城

新しい歴史教科書をつくる会 宮城支部の例会です。

今年は古川学園で自由社の教科書が採択されておりますので、これに続くよう活動したいと思います。
教育の根幹にある問題は非常に複雑です。
先日、高橋史朗先生から受けた親学しかり、道徳であったり歴史であったりと複雑です。
教育の外枠は教科書問題をはじめ、利権の匂いがしますので、そういう状況で自分の子供にどう教育を受けさせるのかは非常に考えさせれます。

自由の英語定義は4つあると高橋史朗先生はおっしゃいました。
・Freedom
Liberty
・Nirvana
・Salvation


現在、日本で教えられる自由の意味は抑圧からの解放であるLibertyだけです。
ここで重要なことはSalvation:他者を救済するという自由、つまりは利他主義も自由であるという点ではないかと思います。
被災地が何故に素晴らしい公だと讃えられたのか、Salvationを根底に持つ教育が正当なのではないかと思います。



やすくに活世塾第9回講座

と、いうわけで修身Blogはじめました。

やすくに活世塾2期、第9回講座ということで行って参りました。
仙台で佐藤さんと合流し、一路東京へ。

遊就館を見学しながら二人でぶらぶらし、お昼はカレーです。









今回の講師は塾長である高橋史朗先生。教育者として馴染みの先生で、NHKなどにもたまに出てらっしゃいます。


今回は先生の親学を中心に講義されました。
2歳の子供を持つ親としても、故郷の行く末を心配する国民としても教育は重要な問題です。

帰り道、ぜひ宮城に呼びたいねえと佐藤さんとお話しして帰りました。教育論として素晴らしい講義です。

親は子供の鏡(かがみ)
子供は親の鑑(かがみ)

という言葉を教えて下さいました。
子供は親を見て育ち、親は子供を観て親になる。

残念なことに故郷石巻は震災により、自助>共助>公助のバランスが崩れており、さらには家族構成も社会環境変化により危ういバランスになっております。
公助が必要なことはもちろんですが、震災で見せた共助、そして土台となる自助意識をどう取り戻していけるのか。石巻の課題は非常に大きいように思います。