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2012年11月1日木曜日

公益社団法人 日本青年会議所 硫黄島事業レポート

公益社団法人 日本青年会議所 国家グループ「凛然とした誇りある国家」創造会議 様

関東地区協議会 人的資源創造委員会 様

また、参加に際しご協力頂いたさまざまな皆様、貴重な機会を頂き本当にありがとうございました。

硫黄島はWikipediaにある通り、東京都に属し1200km南下した小笠原諸島南端にあります。

尖閣の一件で、地理的な要因をあげて東京都所有を現実的でないという論を唱えた方もいましたが、こういう事例もあるということです。むしろこちらは法的要因の方が強いのですが。

硫黄島といえば、「硫黄島からの手紙(Letters from Iwo-Jima)」が有名で、地上波でも放送されていることからこの映画で歴史に興味を持った方も多いと思います。

栗林中将の思いと苛烈な戦いを描く素晴らしい作品ですが、今事業ではそこで語られない重要な事実が、全体を通してありました。そこはまとめにするとして。

元タイトルでIwo-Jimaとあるとおり、「いおうじまからのてがみ」と読みます。

しかし、硫黄島の読みはいおうとう、になります。2007年に旧島民に調査をし、呼び名が混在していた状況を日本側で整理しました。私も呼び名で迷ったことが何度かありましたので、自分のためにもメモしておきます。

一日目は事前勉強会に参加し、八木秀次先生、作家の北康利先生、 衆議院議員で栗林中将のお孫さんにあたる新藤義孝先生より、ご講演頂きました。

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また、ワークショップを開催し、防衛はどうあるべきか、愛国心とは何か、国とはどうあるべきか、誰の為に戦うのか、4つの問から、あるべき日本を班ごとに模索しました。

私が特に感動したのは、一般参加のある女性の発表で「私は女だから戦えないけれど、後ろで精一杯頑張って応援する」という内容でした。

こういう風にかけば、やれ戦争美化だ、マチョイズムだと言われますが、まさに「誰の為に戦うのか?」

その問に多数を占める男性参加者が家族と応える中、女性から「私も出来るところで」という発言があったことは非常に嬉しく、だからこそ硫黄島は戦えたのだと思います。

スポーツは選手だけで戦えるものではなく、そこを支えるサポーターや家族という存在があって、たとえばメダル、たとえば記録に届くものです。

あってはならないことですが、もし、あとに引けない戦争があるのだとするのならば、何の為に戦うのか、そして、戦ってくれるのか、そこを問いなおすことが、日本の過去に求められている最も大きなミッシング・ピースだと私は思います。

二日目は硫黄島へ出発。

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自衛隊の輸送機C-130に乗って2時間40分程度の行程です。

硫黄島で使用されている滑走路は米軍が敷いたもので、ご遺骨がいくつも眠ってらっしゃいます。

その上を着陸、離陸するわけですから、自衛隊の方は常に手を合わせて慎重に操縦するそうです。

基地内、滑走路は撮影禁止でしたので、こちらのスローガンを。島がどれだけ過酷なものか、よくわかると思います。

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昼食と説明の後、慰霊祭を天山慰霊碑にて。

碑の上が抜けているのは、地下で闘いぬいた先人たちが、もっとも欲した太陽の光と水が降り注ぐようにという意匠だそうです。

IMG_0831-2012-10-31-10-17.JPGかつてのむらの跡、硫黄ヶ丘。

IMG_0835-2012-10-31-10-17.JPG偽装滑走路跡地。

IMG_0849-2012-10-31-10-17.JPG 兵団司令部壕。大本営に最後の打電をした場所です。

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医務科壕。

こちらは小規模の壕で、中に入れました。飯盒の跡やヘルメットなどが生々しく残っております。

中はだんだんと熱くなり、奥はすさまじい熱気でした。火山の為、地熱が高いのです。

この熱気の中、18kmもトンネルを掘り、一月半ばも抵抗していたことに、畏怖を感じます。

右の写真は空気孔で、下は空気が流れて少しひんやりしております。聞けば、掃討戦の際、米軍はここから海水、そして油を流し入れ火をつけました。それがゆえにご遺骨の把握が難しいとのことです。また、壕内部は70度になるところもあるそうで、ご遺骨がそのままになっているのが大変偲ばれます。

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そして摺鉢山の頂です。

ここで壮絶な旗の取り合いが行われました。

アメリカのピューリッツァー賞を取ったあれは二本目の旗です。一本目は建てた後、すぐに日本軍が日の丸を掲げ返しています。

また、聞いた話ですが、二本目の日の丸もあったそうで、それは白い布に血で日の丸を描いたものだそうです。やれ国旗がいかん、国歌がいかんという方もおりますが、旗というものの大事さを示すエピソードであり、今生きている感謝は彼らの旗に対する気概のおかげであると認識すれば、国旗のありがたみをもう一度考える機会になるのでは。

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この海岸線から戦いがはじまりました。

島はいまも隆起、侵食を繰り返しており、当時とは形が違っております。

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とても太陽が近い、それが上陸して一番最初に思った感想でした。ついで硫黄の匂いと、群生する緑色。

島全体を覆う緑は合歓の木で、戦闘終了後、遺体と死臭だらけの島を隠すために、米軍が上空から種子を散布したものが、今は島の大部分に繁殖しています。

たまに見かける小さな花だけが緑の中で色彩をつけます。

私は同じく激戦区だったペリリュー島の間近まで行きましたが、観光地化してしまい、当時の面影はほとんどないそうです。この島は時代の影にあり、当時の乾いた土が歴史そのままに残っています。

その乾いた土と、借り物の緑、あとは空の色だけの、とてもさびしい島だったというのが私の感想です。

なぜこの島を護らなければならなかったのか。

地政学という言葉は、哲学同様日本ではなかったことにされたジャンルですが、この島の立地は米軍の本土への爆撃コースの真下にあり、当時の航続距離、迎撃の危険性から島の攻略は必要不可欠でした。

日本側から、この島で戦った先人の思いからすれば、栗林中将の言葉通り、この島を護る一分一秒に意味がある、この言葉に凝縮されていると思います。

もはや連合艦隊も失い、補給のあてもない中で籠城にも似た戦いを行えた理由は、戦陣訓でも教育勅語でも軍国主義でもありません。日本とそこに住む、住んでいく人々に少しでも長く平和を与えたい、その願いなくしてどうして、有害生物、硫黄の悪臭と水不足、地熱と悪天候、降り注ぐ太陽さえも敵になる土地で戦い抜けるでしょうか。

私はただただ先人へ感謝するとともに、このさびしい島にいまだ残されている方をはやく本土に戻してあげたい、それが先人への礼儀であります。

そして先人への本当の慰霊として、次世代につなげていける日本の再構築を実践することが必要であるとの想いを強くしました。

硫黄島をはじめ、大東亜戦争で亡くなられた多くの方々の共通した思いがそれであります。

決して個人主義の蔓延や、道徳や誠実さの無価値化、正義の消失、歴史の喪失などを期待して戦ったわけではありません。

今を生きる我々は、過去からの遺産としてついつい金銭であったり、財産であったりと形あるものや概念に拘りがちです。しかし一方、この歴史の中に生きる先人の思いを受け継ぐことも相続であると認識し、よりよい日本、明るい豊かな世界の中の日本を目指す義務があるように思います。

最後になりますが、靖国神社遊就館で行われております大東亜戦争開戦70年展。その展示。

『君よ 桜花に一掬の涙を注げ』

放送作家の井沢満さんの祓文ですが、私が8月に展示を見た時、泣いてしまいました。

硫黄島への着陸の際もこの展示を思い出し、不覚にも涙がこぼれてしまいました。

「戦があり、いくつもの別れがありました。

 防人たちにもそれぞれの別れの言葉がありました」

この言葉からはじまる祓文ですが、自分が今、家族とともにいる幸せ、不幸だ未来が暗いと嘆くことの出来る幸せ、まだ矢弾さえ尽きておらず未来を選択できる幸せ。

この硫黄島においても、私よりも年若い先人が戦地に赴いたのかと思います。それは、これらの幸せを残すため、自分を犠牲にして我々に未来を託してくれたのです。

我々は硫黄島と共に日本を託されたと思わなければなりません。

子供たちによりよい未来を残すため、我々が、子供たちが世界をよりよく出来る機会を残すため、日本は豊かに、明るく発展していく必要があるのです。

蔓延する悪平等や、経済格差、見え隠れする貴族主義などを打破する本当の鍵は、歴史にこそあると確信します。

今事業に参加できて本当によかった。心から感謝申し上げます。

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